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その1(1965 昭和40年9〜10月)
昭和40年(1965)、私が松下電工に入社して丸5年が経っていた。

ホットカーラーの開発にも目処がつき、大きな課題はこれと言って無かったので、平穏に毎日が過ぎていた。

ある日、最高責任者のK部長から部屋に呼ばれ、「君はアメリカに行ってみたいか」と聞かれ、何も考えてはいなかったのだが、とっさに「行って見たいです」と私は答えた。すると部長は「では計画書を作って持ってきなさい」という。この会社では社員が海外に出張するには関係役員の同意や社長の決裁が必要だった。それだけでなく、当時は1ドルが360円の時代である。漸く業績も安定し始めてはいたが、まだ、海外出張などは社長や役員に限られ、社員では部長も課長も殆ど海外に出た人はいないといった状態だった。だからぺーぺーの私に差し迫った用事もないのに、海外出張しては、という指示はまさに異例中の異例であった。今では海外と言ってもアメリカに行くことは誰でも極く当たり前のことであり、何の不思議もない。しかし、特に用事のない者にアメリカに行ってみよ、という指示を出すことは今でもちょっと考えられないことである。

ともあれ、私は自分でアメリカに行ってするテーマを考え、稟議を起案しなければならなくなった。私は部長が行けと言う意味は何かを考えた結果、アメリカの家庭を見学し、わが国の家庭との生活の違いや製品の普及している様子の違いを知り、新製品開発のヒントを得たいと考えた。アメリカ文化センターに行って調べると、丁度、ニューヨークではワールドフェアが開かれ、体系的に生活文化や科学技術の動向も探索できそうであった。それと、アメリカを語るにはニューヨーク、ロサンゼルス、産業や工業の中心地シカゴなどを回ると良いこともわかった。市場調査をするにはロスで1週間、ニューヨークで10日間、シカゴで3日、サンフランシスコ3日程度が必要であり、25日ほどの旅程を組んだ。
 こうした考えをまとめて部長に報告したところ、25日というところで、首をひねっていたが、まあ良かろう、と最後は計画を認めてくれた。時期は諸事情を考え、準備期間も見て、10月ごろの出発とし、一人で旅行や多少のインタビューも自分でできるように英会話の特訓を受けに行った。近所の教会で開かれていた英会話サークルにも顔を出したが、個人レッスンは受けたくて、カナダ人のシスターに個人教授を受けた。彼女は文章より、単語の発音を徹底的に治してくれた。これは今でも役立っている。

もう一つの準備は訪問地で家庭訪問をしたり、話を聞くのに手助けをしてくれる人を見つけなくてはならないことである。そこで、義兄の紹介で住友商事に挨拶に行き、紹介状を作ってもらった。当時、松下電工では出先機関もなく、松下電器は既にニューヨークに事務所を構えていたが、製品輸出も皆無であったので、全く世話にはなれなかった。そうこうしてツーリストにホテルや航空券の手配もしてもらい、渡米の日も近づき、私は一人で稟議決裁を通してくれた役員や社長のところに挨拶をしてまわった。これは許可をもらったことに対する礼と何か調べてくることはないか、指示があればもらうためである。
 
役員室を一つづつ回り、財務担当のK常務の部屋まで来たとき、K常務は私にところで家庭訪問をするというが、誰か現地で世話をしてくれる者は居るのかと尋ね、いないと答えるとN證券に親しい人が居るから会って頼みなさいと言って電話を自分でとり、うちの若い者がアメリカに行くのでよろしく頼むと頼んでくださった。N證券からはその日のうちに役員の方が来訪され、私の話を聞いて紹介状を作り、ロサンゼルス、ニューヨーク、サンフランシスコ各支店に連絡を入れてくださった。この旅行はN證券のお世話が無かったら殆ど何の成果を得ることも出来なかったであろう。また直属の部下でもない私を心配して、細かいところまでこころやすく援助してくださったK常務のことを私は今でも忘れることができない。

昔の伸び盛り企業にはこうした太っ腹で、いざというときに大きな力を発揮する幹部がごろごろしていた。彼等は時にそうした力技を見せ、大勢の社員を心服させ、厳しい状況に立ち向かう勇気を植えつけていた。

(2006.6.20)続く

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